2017年8月7日(月)七日日町内、合同運行、七日日送り

2017年8月2,3,4日

2017年7月31日(月)前夜祭


29日の安全祈願祭から町内運行まで

2017年の当会ねぷた出陣日程

7月31日(月)19時 長四郎公園出発、城東内運行、21時長四郎公園に到着
8月2日(水)土手町合同運行、待機場所は文化センター側
8月3日(木)土手町合同運行、待機場所は文化センター側
8月4日(金)土手町合同運行、待機場所は文化センター側
8月6日(日)駅前合同運行、待機場所は小林紙工から中央郵便局の間
8月7日(月)7時30分長四郎公園出発 町内運行
8月7日(月)9時長四郎公園到着、10時駅前合同運行に参加
8月7日(月)18時七日日おくりに参加(岩木川河川敷)

2017年鏡絵と見送り絵の説明

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)
日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる[2]。
甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、越後の獅子、軍神と称される。
上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名の長尾 景虎(ながお かげとら)でもよく知られている。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られるとともに「政」の1字を与えられて上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、それまで上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領をも引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。
内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、48年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。
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巴御前[1] (ともえごぜん/ともゑごぜん、生没年不詳)
平安時代末期の信濃国の女性。
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。
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袖絵(人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり)
武田信玄は、人の力がないと城があっても役に立たない。信頼できる「人」の集まりは 強固な「城」に匹敵すると考えていたそうです。
人は、情をかけると味方になる一方、権力で抑えつけれたり不信感を与えると必ず反発にあい、害意を抱くようになります。個々の特徴を掴み、適材適所で個人の才能を十分に発揮できる集団を作ることが大事で、その人材こそが城であり石垣であり堀である。と教訓を残しています。