平成28年のねぷた

2016年
弘前ねぷたコンテストにおいて、知事賞を受賞しました!

本ねぷた
鏡絵 藩祖 夜襲撃の図(はんそ やしゅうげきのず)
見送絵 阿保良姫(おうらひめ)
絵師  聖龍院 龍仙(しょうりゅういん りゅうせん)
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DSCF1114 大浦家の家督を18歳(永禄10年=1567年)に相続した津軽為信は、19歳の時に軍事演習と称して野崎村の焼き討ちを行い、集団戦法の力量の確認のみならず、家臣の心服の度合いを試しています。その3年後である元亀2年(1571年)、南部氏からの独立を決意した為信は、南部家当主の信直の実父で、津軽地方を治めていた南部高信の討伐を計画します。
「私が大浦(青森県弘前市岩木地区)を治められるのも南部高信殿のお陰です。」と持ち上げて、高信の居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出て許可をもらいます。土石に見せかけて兵糧や武器を堀越城に運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修完成の記念に高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付け、引き出物を付けて帰します。そしてその夜、そのまま堀越城にとどまっていた板垣を先手として石川城を急襲し、油断していた高信を自刃に追い込みました。こうして為信は独立の狼煙を上げ、その後17年掛けて諸城を攻略し、津軽を平定していきました。

前ねぷた
鏡絵 大浦為信 野崎村焼き討ち之図(おおうらためのぶ のざきむらやきうちのず)
見送り絵  阿保良姫(おうらひめ)
絵師 三浦 岳仙(みうら がくせん)
DSCF1183 大浦の家督を相続してた翌年(永禄12年=1567年)、為信は「鷹狩」と称し、大浦城から直線距離にして北東に1.4kmほどのところに位置する野崎村に軍勢を進めましたた。しかし、為信はここで鷹狩はせず、こともあろうか野崎村に火を放ってしまいました。もっとも、野崎村の民衆には事前に告知しており、当日、村はもぬけの殻でしたし、焼き討ち後には、前より立派な家を作り与えたので、民衆からは喜ばれたそうです。「津軽一統志」などが伝える、為信による最初の軍勢催促のシーンです。この行動については、(1)どれだけの人数が為信の召集に応じるか確かめること、(2)兵の働きぶりなどをみること、(3)領民の心を引きつけること、という三つの狙いがあったとされています。
為信の召集に応じたのは1,000人余りで、期待していたよりも少なかったようです。大浦家中には、いまだ為信に従わない者が、少なからずいた証です。一方、主として大浦城の北側に拠点を構える一揆衆は、為信に応じ出陣しています(彼らはその後、譜代の家臣となっていきます)。為信は、一揆衆や地侍といった勢力を自軍に編成していきますが、後に三老と呼ばれて為信の側近となる小笠原・森岡・兼平(元々の大浦譜代の家臣)のもとに編成されていきます。為信は、自らに従う家臣団を、こうして作り上げていったのでした。
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ことしで大型ねぷた10周年を迎える当会です。1年目の時は、龍仙絵師に「関ヶ原 藩祖出陣」を描いてもらいましたので、今回も津軽為信を題材にしてもらいました。

今年のテーマは「いざ、出陣!」です。
藩祖為信は、石川城を真夜中に襲撃し、その後津軽統一を成し遂げました。鏡絵では、暗闇の中、声を押し殺して城門に到達し、
『いざ!門を打ち破り、城内に攻め入るその瞬間!』
を表現しています。
子どもたちのヤーヤドーの掛け声、轟く笛太鼓、ほら貝も、その討ち入りの勢いを再現しています。鏡絵と一体となって御覧ください。

今年は「城東友の会40周年」と「当会10周年」の節目の年です。当会も未来に向かって、「いざ、出陣」します!