平成19年のねぷた

平成19年(2007年)のねぷた
鏡絵=藩主出陣、見送り絵=阿保良姫(城東地区ねぷた愛好会)
2007年城東地区ねぷた絵について

絵師:八嶋龍仙
鏡絵:関ヶ原 藩主出陣
見送り絵:阿保良姫

今回の八嶋先生の絵は、「八嶋式」ともいえる技法で描かれています。一度薄い下色を塗り、その上からロウを引き、その上に濃い色を重ねています。やわらかい色合いが今までのねぷたになかった雰囲気を醸し出しています。

普通のロウ引きによる白色と、この八嶋式によるロウ引きの色合いの違いをお楽しみください。



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から、津軽為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加しました。一方で、嫡男・信建(烏帽子親は石田三成)は、豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあったため、西軍として自身の配下を率い出陣しています。両軍生き残り策をとった武将は他に真田氏などあったそうです。

為信は、東海道隊別働隊(大垣城包囲・周辺城砦攻略)に属し、西軍石田光成が関ヶ原の戦いで本拠地にしていた大垣城を攻めました。その際の論功行賞として上野国大館(現群馬県太田市尾島)に2,000石を受けています。これが縁で、太田市尾島ではお盆にねぷた祭りが催され、友好都市の盟約が結ばれています。

西軍が壊滅した際、西軍についていた嫡男・信建は密かに石田三成の子重成・三女・辰子姫らを連れて津軽に帰国しています。重成は杉山八兵衛と改名し津軽家に仕え重臣となっていますし、辰子姫は三男・信牧の側室となって3代目藩主信義を産んでいます。 尚、辰子姫は側室であったため、上野国大館(現群馬県太田市尾島)に居を構えます。ここは西軍を破った論功行賞で得た飛び地であり、複雑な因縁の地でもあるのです。

その後、家中騒動にて城が占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)岩木川と土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工しました(弘前と改名。弘前城)。その際、軍師である沼田面松斎が一代の大仕事、縄張りをしており、2代目の信枚の代まで工事は引き継がれました。

弘前に築城する際に、沼田面松斎は易学などの知識をもとに京都・江戸にならい城下の神社仏閣の配置を定めました。四神とは古代中国で四方を象徴する神で、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)と配置されます。古くは高松塚古墳にもその図が描かれています。城東地区ねぷた愛好会のシンボルが青龍なのは、ここから来ています。

慶長12年(1607年)12月に為信は京都で死亡します。享年58歳。
父の名代を務めるなど、跡継ぎと思われていた嫡男・信建は同年10月、父に先立ち死去しており、為信の跡は三男・信枚(次男も既に死亡)が継ぐこととなりました。その際、翌年信建の嫡男・熊千代(大熊)が、津軽建広ら信建派の家臣に推され、為信の正嫡を主張し、幕府に裁定を求める御家騒動が勃発しましたが、幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放され、御家騒動は収まりました。
阿保良姫は大浦為則の娘で、為信の正室です。為信は婿養子として大浦氏を継いだことになります。城内に長屋を建て家臣の遺児を養育したといわれています。1607年に為信が亡くなった後は仙桃院と号しました。